「自由」を棄てて「自由」になるー『中動態の世界』ー
なんで今更ブログなのか
テストとして、読書を通じて掘り下げたいと思ったトピックについて、ブログを使って整理・ストックしてみたい
1番の理由は、自分の思考を貯めておきたいから
自分で考えながら書かれた内容を追っているつもりなんだけど
読み終わって暫くしたら何を考えていたのか、そもそも何について考えていたのかを忘れてしまう
大学生になって意識して読書するようになってから、常に抱えている悩みだ
本に付箋を貼る、考えを書き込む、書評会を友人と開くなど
色々試してみたがイマイチしっくりこず
ぶつ切りな思考が頭の中に漂っているような感覚があり
それらを結びつけるにはどうすれば良いのか明確な答えが出ないでいた
そこでブログを収納棚のように使い、思考の断片をそこにぶち込もうと思った
evernoteも使っているけど、秩序立てた文章を書く訓練もしたいので、ブログという形式をとることにした
スピノザ哲学についてー『中動態の哲学』よりー
そんな経緯で始める読書メモ
今回は『中動態の哲学』より、スピノザの「自由」についての考察を整理してみる
スピノザが提唱した考えに「神即自然」というものがある
「神の実体は宇宙や自然そのものであり、それらが姿形を変えた者として万物はこの世に存在している」という考えだ(ぜんぜん分かんね)
要するに
あらゆるものは神の一部であり、神によって包摂されている
また、神が様々な姿形をもってして事物が生まれるのだから
神は万物の原因だとも言える
「自由」の否定こそ「自由」への第一歩
これは僕が「自由」について考える上で非常に参考になる考えだ
普通、「自由」と耳にすると、「無制限」「何でもあり」といった、際限のない振る舞いを約束されたような印象を受ける
しかし、彼に言わせればそれは幻想である
つまり、純粋な自由意志など存在しない
なぜならあらゆる行為は神のなすがままであり
即ち、外部の影響に私達の思考や行動は規定されている
この「外部の影響」はマクロでは「環境」などだし、ミクロだと「他人」とかが考えられる
「朱に交われば赤くなる」
そう考えると、自分はどこまでも「受け身」な存在なんじゃないかと、ブルーな気分になってくる
しかし、そうではない、と著者の國分氏は主張する
彼に言わせれば
「自由意志」を否定することこそ、本当の「自由」を獲得する第一歩なのだという
ポイントは「内発性」
國分氏は「変状」という言葉を用いて、人間が外部の影響を受けて何かしらの変化に至るまでのプロセスを細かに解きほぐしている
その説明を、僕なりに噛み砕いて要約すると以下のようになる
①外部から影響を受ける・・・A
②その影響に対して「内発性」を働かせて、吟味する・・・B(人間の本質)
③何らかの「変状」に至り、それが欲望を生み出して具体的な思考や行為に結びつく
まとめると、AとBの混合が「変状」をもたらすということである
スピノザは、この「変状」にどれだけB(人間の本質)が含まれているかで、それが「能動的」か「受動的」か判断するのだという
ところで、サッカーの試合中継ではしばしば「ボール支配率」がパーセンテージとして画面に表示されるが
それは「ボールを自由に動かせている割合」とも言える
このように「変状」=「A:40%:60%:B」といった「度合いの差」に応じて
「自由の度合い」も変わっていくということだ
「内発性」をどうやって「変状」に組み込むか
どれだけ自分の「変状」の内訳にB=「内発性」を入れられるかが、「自由」を獲得するために必要なスタンスなんだけど
ならそうした態度って、具体的にどんなものなのか
外部からの影響にされるがままに変状することを避けるにはどうすれば良いのか
影響にさらされている自分やその影響自体を『 』に入れて俯瞰する、精神的余裕を持つべきなんじゃないかと、僕は思う
例えば
マンションのエレベーターで隣人と遭遇し、挨拶をしたところガン無視され
思わず「イラっ」としたとしよう
この時、「ガン無視」をかっこに入れて
「なぜこうした態度をとるのか」「そもそも気づかなかったのか」など、その意図に注目する
影響に反応して「イラっ」とした自分にアプローチするなら
「何に対して苛立ったのか」「そもそもこの場面で苛立つのは妥当か」など、感情を見つめる
「そんな 聖人プレイ続けてたら頭おかしくなる」感は否めないけど
要は「自分が受けている影響に自覚的である」ことが
「自由」であるために大切な態度だと思った
外部からの影響に対して即物的に反応してしまうことは「神の奴隷」であり、そうした反応に対して「やらされた感」を抱いてしまう
一呼吸置いて、「サァ、自分はどう出ようか?」といった姿勢をもってそうした影響に対峙することこそ、自分を「自由」へと向かわせるのだと思う