すぐに家が散らかる

あたまだけは整理できるように

ヒトラーの「カリスマ性」とポピュリズムの「レトリック」

きっかけは「ポピュリズム」への興味

 

ヒトラーの演説』という本が面白い

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

ヒトラー演説 - 熱狂の真実 (中公新書)

 

トランプを象徴とするポピュリズムについて最近興味を持っていた

ポピュリズム」について説明を加えるとこんな感じ

 

ポピュリズムとは

一般大衆の利益や権利、願望、不安や恐れを利用して

大衆の支持のもとに、既存のエリート主義である体制側や知識人などと対決しようとする政治思想、または政治姿勢

のことである。

要は

人々の「感情」を掻き立てることで支持を獲得していく考え・スタンス

 

これを実践している人を

「ポピュリスト」と呼ぶ

 

関連する本がないか書店に出向くと、やはりトランプ関連本が多かった

 

しかし、このテーマは少し過去から学びたいかなーと思ったので

トランプではなくヒトラーの本を読んでみたという経緯

 

結果的に、ポピュリストへの理解が深まるとともに

自分が抱いていた「ヒトラー像」を更新することができた

 

以下、『ヒトラーの演説』を読んで最も印象に残った

「彼のカリスマ性の検証」について書いていく

 

ヒトラーは「カリスマ」だったのか?

 

この本の最大の特徴は

ヒトラーのイメージとして強い「カリスマ性」を取り上げつつ

それを批判的に検証しているところにあるだろう

 

著者の高田博行氏は25年間・150万語の演説データを通してヒトラーの実像を描こうとしている

 

僕たちがヒトラーの「カリスマ性」をイメージするとき

最初に思い浮かぶのは

彼が人々に「演説」している風景だろう

 

www.youtube.com

 

(日本語字幕がついているので、ぜひスピーチの「表現パターン」に注目しながら観て欲しい)

 

ヒトラーを取り上げているテレビ番組でこうした映像をよく見かける

 

しかし、ヒトラーが政権を獲得した1年半後には既に飽きられ始めていたという

 

本では次のように書かれている

 

ヒトラー演説は、ラジオと映画というメディアを獲得することによって、その威力は理論値としては最大になった。

ところが

民衆における受容といういわば実測値においては、演説の威力は下降線を描いていったのである。

 

政権獲得は1933年だから、その1年半後となると1935年になる

 

終戦の10年前には彼のカリスマ性が下降線を辿っていたことには驚いた

 

(逆に、下降し始めてから10年持ったということでもあるが)

 

人のイメージって、1番際立つ部分から形成されるとしても、それがその人の全てではないということに注意しないとなーと思った

 

「スピーチ表現」に表れる「ポピュリズム

 

本を手に取る直接的動機であった「ポピュリズム」については

特に演説の「レトリック」に関する内容が興味深かった

 

ヒトラーがよく好んで用いた「レトリック」として

「仮定表現」と「対比法」を挙げている

 

「仮定表現」については

議論する上で都合の良い事柄を作り出す役割を果たし

 

「対比法」については

「AではなくB」という構文を用いることで、Aを否定しつつBをアピールする役割を果たす

(高校英語で「not A but B」習った時のこと思い出した)

 

さっき挙げた動画の4:49~5:20にはそれこそ

「対比法」=「AではなくB」が用いられている

(Aではなく)

過去の14年間の悲劇的崩壊忘れ

(B)

ドイツ2000年の歴史を思い出すのだ

 

(Aではなく①)

もはやドイツ国民に不名誉や衰退の言葉不要だ

(Aではなく②)

虚弱や不誠実の表現無用のものとなった

(B)

神よ 強さは戻った

 

彼の演説によって表象されていたカリスマ性の背景には

こうした理論による下支えがあったということなのだろうか

 

特に「対比法」については、優劣関係を強調するという点でも有効なレトリックだと思った

 

言葉の裏にある「メッセージ」に注目 

 

読み進めながら、現代のポピュリストが頭に浮かんできた

 

「金持ちではなく労働者を」

「難民ではなくアメリカ国民を」

 

ヒトラーに限らず、時代を超えてポピュリスト達に広く共有されているレトリックは存在するだろう

 

 

言葉それ自体ではなく

その言葉の持つメッセージに反応していきたい

 

 

(やはりサラッと読むとアフトプット薄くなるので、次はもう少し読み込んでからにしよう...)

 

おしまい

 

「自由」を捨てて自由になる②〜「本質とは力」〜

 

「前回のまとめ

前回のブログをおさらいする

 

まず、スピノザの「自由論」を理解する上で大切になってくる「汎神論」「神即自然」といった「スピノザワード」を確認した

その上で、彼が考える「善悪」の考え方を考察した

 

それ自体が本質的に善い悪いではなく

自分の性質に合わせた組み合わせを大事にしていくという柔軟性に富んだ考え方

 

例えば朝が弱い人にとって、「時計のアラーム」は非常に良い組み合わせだろうし

逆に、夜眠れない人にとっては「アイマスク」が善いのかもしれない

 

こういった目に見える物に限らず、人・場所・環境など色々な組み合わせについて考えることができる 

 

そして、組み合わせがうまくいくと自分の「活動能力」を高めることができ、それは「大なる完全生」であるとスピノザは考えていた

 

第2章のでは、この「活動能力」について説明が進められていく

 

「本質」は「形」ではなく「力」

スピノザは、「本質」とは「力」だと主張する

國分氏曰く、これは哲学史上画期的な視点であり、彼の考える「自由」を理解する上で大切な考え方だとのこと

 

そもそも、古代ギリシアの哲学では「本質」とは基本的に「形」と考えられてきたという

 

「形」はギリシア語で「エイドス」と呼ばれ「見かけ」「外見」を意味する

 

では、「本質」を「形」と考えた場合と「力」と考えた場合では、私たちの物の見方にどんな変化が生じるのか

 

ところで、私は小さい頃から「ピンク」が好きだった

 

幼稚園の色を指定できるネームプレートも「ピンク」

初めて買ってもらった自転車の色も「ピンク」

スマブラで一番使っていたキャラは「カービィ」(関係ないかも)

 

なぜか分からないが、とにかくピンクが好きだった

小学校に上がる前にランドセルを買うときも「ピンク!」と親にお願いしたが

「黒の方がいいよ」と言われ、結局黒のランドセルを買った覚えがある

 

今思うと、周りからいじめられることを親が心配してくれたのかもしれない

 

 ここでさっきの話に戻って見る

 

「本質」を「形」と考えた場合、ぼくの本質は「男」だと捉えられる

「男がピンクのランドセルはおかしい」という考えは、「男なんだから黒だろ」というエイドス的見方に基づく

しかし、「男だから黒・女だからピンク」って、本当にそうなのか

物事に対する解像度が粗くて、抽象的な見方に思えてしまう

 

スピノザの言葉を借りるなら、それは「一般的観念=偏見」にもとづく考えだと言える

 

対して、「ピンクが良いならそれでok」という考え方が、本質を「力」と捉えるスピノザ的な態度だといえる

 

ピンクに囲まれていると私は嬉しかったし、だから積極的に選んでいた

それは、ピンクが私にとって「組み合わせの善い」色だったからだと思う

 

エイドス的視点、つまり何か一つの枠組みによって人の在りようの善し悪しを判断する態度を「道徳」と呼ぶなら

 

スピノザ的視点、つまり「本質」は「力」だと考え、1人1人の力の在りようを具体的に見て、組み合わせによって善し悪しを判断する態度はまさに「倫理」と呼べよう

 

ところで、最近タトゥーで話題になったりゅうちぇるはまさにこうした倫理的な態度を貫いてると思う

 

彼の態度・行動やそれに対するバッシングを見ていると、「本質は何か」という問いが自然と頭に浮かんでくる

 

「男なのに女性っぽいファッション」「夫なのにチャラチャラしている」「パパなのにタトゥー入れている」

 

 何から何まで規範からズレている様子に対して、世間からこうした批判がでる

 

確かに、エイドス的な考えに寄れば彼の言動や態度は「不道徳」だと言えるかもしれない

一方彼ほど、自分の力を最大化できるものは何かという「組み合わせ」を考えて、物事を選択している人はいないのではないか

 

ある番組でコメンテーターが

「そんな格好をパパがしてたら、絶対子供が可哀想」とコメントした時

 

りゅうちぇるは「自身のスタイルを曲げない」と返した上で

「もしお父さんがこうやって言われるのが嫌って思うんだったら、もう『お父さんって思わなくていいよ』って言います、僕」

 

と宣言したのを観たことがあるが

とことん自分の内面に根ざしたスタイルに拘る彼の態度は「倫理的」に見えてならない

 

(一方、手放しで賛同できない点もある。スピノザは、自分の本質=コナトゥスに即して生きることは決して独りよがりなものではなく、お互いのコナトゥスを尊重しながら生きていくのだと主張しており、國分氏はこれを「反復的社会契約説」だと説明している。しかし、徹底的に・激しくコナトゥスに即した生き方を貫いた場合、それは時として他人を傷つける可能性があるのではないかと思った。) 

 

本質=コナトゥス=変状する力=欲望

「本質とは力」というスピノザの考えを確認したが

彼は以下のワードで「本質」を言い表している

コナトゥス

変状

欲望

これらは全て「本質」を言い換えた言葉である

 

まず、「コナトゥス」とはつまり

自己の存在を維持しようとする力

だと彼は言う

もっというと

何らかの刺激を受けた時、それに対応しようとする力のことを指している

 

次に、「変状」とは「刺激に対する変化」だと説明する

つまり、「コナトゥス」=「変状する力」であり

こうした力によってもたらされる気持ちを「欲望」と表現した

 

 

例えば、仕事でミスをして怒られた時を想像してみる

大体の場合、気持ちが沈むだろう

 

この「怒られる」という刺激に対してテンションが下がる状態

スピノザ的には「変状」と呼ぶ

 

一方、テンション下げたまま仕事するのも嫌だし

段々と、この状況から抜け出したいと思うようになる

こうした働きを「コナトゥス」「変状する力」と呼び

 

たとえば怒られたことを忘れようとか、他のことを考えようとすることが「欲望」になる

①と②のまとめ

  スピノザの「自由論」を理解する上でのベースが出来上がった

 

まず、「神即自然」という、神はこの世の全てであり、それゆえ万物は完全であるという考えから出発した

したがって、「不完全」なものなど存在せず、そう思うのは「偏見」に基づくのだとスピノザは主張する

そして、「善悪」に対しても彼は独自の判断基準を提案する

そのものの本質=力を最大限発揮させるような「組み合わせ」によって善し悪しを判断するという見方は、ギリシア哲学から続く「形こそ本質だ」というエイドス的なものの見方を退ける

 

善い組み合わせを選ぶことによって、私達は活動能力を高め「大なる完全性」になることができる

 

そしてこの「力」とは「自己を維持しようとする力」であり、外部からの刺激に対応しようとする時にこの力は発動される

 

彼はこうした世界観を提示した上で、どういった「自由」を提示したのか

次のブログで考察を深めていきたい

 

 

「自由」を捨てて自由になる〜①「善悪」ってどうやって決まるの?〜

 

 

『100分de名著 スピノザ「エチカ」』を読んだ

今、 NHKの「100分de名著」でスピノザの「エチカ」が特集されている

www.nhk.or.jp

 

監修は『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』でお馴染み、國分功一郎氏ということもあり、思わずテキストを購入

 

テキストでは「エチカ」を「善悪」「本質」「自由」「真理」の4章に分けて考察しており

段階を追いながら『エチカ』で唱えられている自由というワードを紐解いている

 

読む中で、スピノザの考える「自由」が一般に言われるものと如何に異なる意味を帯びているのかがわかったし

何より『中動態の世界』では良く分からなかった部分が明らかにできたので嬉しい

 

自分の理解を整理する意味で、本から得た情報とそれに対する考えをまとめていく

 

そもそも、スピノザの唱える「自由」の定義はなんだろうか

 

彼がいう「自由」の概念をきっちり理解するために

前提として押さえたい点が二つある

 

一つは神即自然というワード

 

もう一つは彼の考える善悪について

 

 

2章に分けて、それぞれ説明していく

「神即自然」=「神が全てで、僕らは完全無欠」

「神即自然」を文章にすると

「神は即ち自然である」となる(いや分からん)

 

一体どういうことなのか

 

この言葉を読み解くうえで重要なキーワードが「汎神論」である

(だから分からんって)

 

これは

世界のありとあらゆるものが神であり

神によって全てのものはもたらされた

という考えである

 

日本の「八百万」のような多神教とは異なり

唯一神=たった1人の神が想定されており

こうした世界に追いて、神は他のいかなるものからも影響を受けず

自分の中の法則だけで動いているという

 

人間だってオケラだってアメンボだって

全ては神によって創造される

神とは、それらを全て包む宇宙のような存在であり、無限

つまりは完全無欠である

 

したがって

神によって創造される人間もまた、それぞれ完全な存在ということになる

 

こんなこと言われても、キョトンとしてしまうだろう

 

「すぐ忘れ物するし」「怒りっぽいし」「人見知りだし」

(「あなたは完全だ」と言われた瞬間、自分の不完全な部分に目が行くのはなぜだろうか)

しかし、スピノザはこう反論する

自分が不完全だと思っていることは

「こうあるべき」という偏見と比較しているからだ!!!

 

(自己啓発っぽくなってきた)

 

彼にとって完全・不完全という区分は存在せず

完全しか存在しない(どんだけポジティブ)

 

厳密には大なる完全性」と「小なる完全性という

度合いのレベルで考えるべきだと言っている

この「大なる・小なる完全性」については次の章で説明する

善悪は「組み合わせ」次第

「神がぜんぶ創ったんだからぜんぶ完全なの!」

というスピノザの考えを見てきたが

 

それと同様に

何かに対してそれ自体が「善い・悪い」という考え方も彼は否定する

 

しかし、善悪がナイト言っているわけではなく

これもまた、独特な判断基準を持ち寄ってくる

 

それは

「組み合わせによって活動能力が高まっているかどうか」である

 

ある行動が善いかどうか判断する際

組み合わせ」が重要だと彼は指摘する

 

例えば、音楽が好きで静かな場所を好む人にとっては

「クラブ」よりも「ジャズバー」の方が”善い”組み合わせかもしれないし

 

服は好きだが潔癖症の人にとっては

「古着」はむしろ”悪い”組み合わせかもしれない

 

 

こうした組み合わせをへて

その人の活動能力が高まるかどうかで

「善い悪い」を考えるべきだとスピノザは主張する

 

彼はまた、「活動能力の増減」という表現に加え

小なる完全性から大なる完全性」とも言っており

 

活動能力を最大化させることで、人はよりハイクオリティな完全性を帯びることができると主張する

一章の感想

ここからは感想

 

 すごく良いなぁと思ったのは

 

善悪をこれ!って決めつけず

「それって結局は相性じゃない?」

っていう個人差を考慮していること

 

学校で習った「道徳」のような

仰々しくて、遠い彼方にある価値観を押し付けるんじゃなくて

 

色々と実際に試しながら、善い組み合わせを考えていこうって態度

 

塾講の指導に活かせるな

これが倫理学か〜おくぶかっ

「自由」を棄てて「自由」になるー『中動態の世界』ー

なんで今更ブログなのか

テストとして、読書を通じて掘り下げたいと思ったトピックについて、ブログを使って整理・ストックしてみたい

 

1番の理由は、自分の思考を貯めておきたいから

 

自分で考えながら書かれた内容を追っているつもりなんだけど

読み終わって暫くしたら何を考えていたのか、そもそも何について考えていたのかを忘れてしまう

 

大学生になって意識して読書するようになってから、常に抱えている悩みだ

 

本に付箋を貼る、考えを書き込む、書評会を友人と開くなど

色々試してみたがイマイチしっくりこず

 

ぶつ切りな思考が頭の中に漂っているような感覚があり

それらを結びつけるにはどうすれば良いのか明確な答えが出ないでいた

 

そこでブログを収納棚のように使い、思考の断片をそこにぶち込もうと思った

 

evernoteも使っているけど、秩序立てた文章を書く訓練もしたいので、ブログという形式をとることにした

 

スピノザ哲学についてー『中動態の哲学』よりー

そんな経緯で始める読書メモ

 

今回は『中動態の哲学』より、スピノザの「自由」についての考察を整理してみる

 

スピノザが提唱した考えに「神即自然」というものがある

 

「神の実体は宇宙や自然そのものであり、それらが姿形を変えた者として万物はこの世に存在している」という考えだ(ぜんぜん分かんね)

 

要するに

あらゆるものは神の一部であり、神によって包摂されている

ãã¢ã³ã¹ã¿ã¼ã¨ã³ã¸ã³ãç¥ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ 

 

また、神が様々な姿形をもってして事物が生まれるのだから

神は万物の原因だとも言える

「自由」の否定こそ「自由」への第一歩

これは僕が「自由」について考える上で非常に参考になる考えだ

ãç¬äºãã­ã·ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

普通、「自由」と耳にすると、「無制限」「何でもあり」といった、際限のない振る舞いを約束されたような印象を受ける

 

しかし、彼に言わせればそれは幻想である

つまり、純粋な自由意志など存在しない

 

なぜならあらゆる行為は神のなすがままであり

即ち、外部の影響に私達の思考や行動は規定されている

 

この「外部の影響」はマクロでは「環境」などだし、ミクロだと「他人」とかが考えられる

 

「朱に交われば赤くなる」

 

そう考えると、自分はどこまでも「受け身」な存在なんじゃないかと、ブルーな気分になってくる

 

しかし、そうではない、と著者の國分氏は主張する

 

彼に言わせれば

「自由意志」を否定することこそ、本当の「自由」を獲得する第一歩なのだという

 ポイントは「内発性」

國分氏は「変状」という言葉を用いて、人間が外部の影響を受けて何かしらの変化に至るまでのプロセスを細かに解きほぐしている

 

その説明を、僕なりに噛み砕いて要約すると以下のようになる

 

①外部から影響を受ける・・・A

②その影響に対して「内発性」を働かせて、吟味する・・・B(人間の本質)

③何らかの「変状」に至り、それが欲望を生み出して具体的な思考や行為に結びつく

 

まとめると、AとBの混合が「変状」をもたらすということである

 

スピノザは、この「変状」にどれだけB(人間の本質)が含まれているかで、それが「能動的」か「受動的」か判断するのだという

 

ところで、サッカーの試合中継ではしばしば「ボール支配率」がパーセンテージとして画面に表示されるが

 

ããã¼ã«æ¯éçãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 

それは「ボールを自由に動かせている割合」とも言える

このように「変状」=「A:40%:60%:B」といった「度合いの差」に応じて

「自由の度合い」も変わっていくということだ

 

「内発性」をどうやって「変状」に組み込むか

 

どれだけ自分の「変状」の内訳にB=「内発性」を入れられるかが、「自由」を獲得するために必要なスタンスなんだけど

 

ならそうした態度って、具体的にどんなものなのか

 

外部からの影響にされるがままに変状することを避けるにはどうすれば良いのか

 

影響にさらされている自分やその影響自体を『 』に入れて俯瞰する、精神的余裕を持つべきなんじゃないかと、僕は思う

 

例えば

マンションのエレベーターで隣人と遭遇し、挨拶をしたところガン無視され

思わず「イラっ」としたとしよう

 

この時、「ガン無視」をかっこに入れて

「なぜこうした態度をとるのか」「そもそも気づかなかったのか」など、その意図に注目する

 

影響に反応して「イラっ」とした自分にアプローチするなら

「何に対して苛立ったのか」「そもそもこの場面で苛立つのは妥当か」など、感情を見つめる

 

「そんな 聖人プレイ続けてたら頭おかしくなる」感は否めないけど

要は「自分が受けている影響に自覚的である」ことが

「自由」であるために大切な態度だと思った

 

外部からの影響に対して即物的に反応してしまうことは「神の奴隷」であり、そうした反応に対して「やらされた感」を抱いてしまう

 

一呼吸置いて、「サァ、自分はどう出ようか?」といった姿勢をもってそうした影響に対峙することこそ、自分を「自由」へと向かわせるのだと思う

 

 

 

「インプット力」を伸ばすにはー「意志」と「掘り下げ」ー

ワークショップで下手こいた

記号, 申し訳ありませんが, 文字, 図, シルエット, テキスト, メッセージ

最近、とある学会のワークショップで英語のプレゼンを行い、大失敗してしまった

 

パワポではなく方眼紙にプレゼンの要旨をまとめ、それを中心に発表をする形式だった

 

他の人と違う色を出そうと、僕は「四コマ漫画」を方眼紙に盛り込んだ

 

しかし、肝心の四コマ漫画を説明する場面で、急に英語が出なくなり、30秒方眼紙を見つめながら立ち尽くしてしまった

 

正直後悔しかなかった。「まだやれたのに」という感覚

 

「英語のプレゼンに慣れてなかった」というのが原因ならまだ割り切れたかもしれないが、今回はそれ以外の理由が頭に浮かんだ

 

四コマで止まったのは「未熟なインプット」が理由だと思う。

要は、プレゼン内容の理解不足。

 

未熟なインプット

プレゼンで扱う用語自体は頭に入れておいた

 

しかし、用語の背景や、それを通して何を伝えたいのかをよく詰め切らないまま本番を迎えてしまった

 

思えば、自分は塾のバイトでも同じ失敗を犯している

 

「問題の答えだけ把握しとけば良いだろ」と、浅い予習のまま授業を行い

結果、生徒から応用の知識を尋ねられた時に全く答えられない、ということがあった

 

英語プレゼンにしろ、塾バイトにしろ、いずれの失敗も原因は「準備不足」

 

もっと具体的に言うと「意志なきインプット」が失敗につながった

 

意志なきインプット

 

「なんでこう言えるのか」「この知識を通じて何を伝えたいのか」

 

そうした思考を踏まえずにアウトプットが上手くいくと考えてしまった浅慮さ

 

こうした姿勢は、自分の頭で物事を考えようとしない悪習慣が身についている証拠だし、深刻に受け止める必要があるなぁ

 

何をしてもすぐに飽きて長続きしないのも、頭を使っていないので、物事を掘り下げられていないからかもしれない

 

「digる」ことで見えてくる新鮮さに辿り着く前に、思考を放棄してしまっている

 

 

「違和感」を大切に

英語のプレゼン失敗談からいつのまにか人格否定へとエスカレートしてしまった笑

 

 

言葉を付け足しながら今までの思考をまとめると

 

誰かに何かを的確に伝えるには、準備として頭を使って知識を咀嚼する必要がある

 

「これはどういうことか」「何が言えるのか」「本当にそうなのか」

 

意志をもってインプットすることで生じてくる「違和感」

 

その「違和感」を突き止めようと、知識の背景にまで意識が向い、結果として掘り下げていくことができる

 

 

意志をもってインプットし

そこから生じた違和感をdigれ!

 

おしまい