「自由」を捨てて自由になる②〜「本質とは力」〜
「前回のまとめ
前回のブログをおさらいする
まず、スピノザの「自由論」を理解する上で大切になってくる「汎神論」「神即自然」といった「スピノザワード」を確認した
その上で、彼が考える「善悪」の考え方を考察した
それ自体が本質的に善い悪いではなく
自分の性質に合わせた組み合わせを大事にしていくという柔軟性に富んだ考え方
例えば朝が弱い人にとって、「時計のアラーム」は非常に良い組み合わせだろうし
逆に、夜眠れない人にとっては「アイマスク」が善いのかもしれない
こういった目に見える物に限らず、人・場所・環境など色々な組み合わせについて考えることができる
そして、組み合わせがうまくいくと自分の「活動能力」を高めることができ、それは「大なる完全生」であるとスピノザは考えていた
第2章のでは、この「活動能力」について説明が進められていく
「本質」は「形」ではなく「力」
スピノザは、「本質」とは「力」だと主張する
國分氏曰く、これは哲学史上画期的な視点であり、彼の考える「自由」を理解する上で大切な考え方だとのこと
そもそも、古代ギリシアの哲学では「本質」とは基本的に「形」と考えられてきたという
「形」はギリシア語で「エイドス」と呼ばれ「見かけ」「外見」を意味する
では、「本質」を「形」と考えた場合と「力」と考えた場合では、私たちの物の見方にどんな変化が生じるのか
ところで、私は小さい頃から「ピンク」が好きだった
幼稚園の色を指定できるネームプレートも「ピンク」
初めて買ってもらった自転車の色も「ピンク」
スマブラで一番使っていたキャラは「カービィ」(関係ないかも)
なぜか分からないが、とにかくピンクが好きだった
小学校に上がる前にランドセルを買うときも「ピンク!」と親にお願いしたが
「黒の方がいいよ」と言われ、結局黒のランドセルを買った覚えがある
今思うと、周りからいじめられることを親が心配してくれたのかもしれない
ここでさっきの話に戻って見る
「本質」を「形」と考えた場合、ぼくの本質は「男」だと捉えられる
「男がピンクのランドセルはおかしい」という考えは、「男なんだから黒だろ」というエイドス的見方に基づく
しかし、「男だから黒・女だからピンク」って、本当にそうなのか
物事に対する解像度が粗くて、抽象的な見方に思えてしまう
スピノザの言葉を借りるなら、それは「一般的観念=偏見」にもとづく考えだと言える
対して、「ピンクが良いならそれでok」という考え方が、本質を「力」と捉えるスピノザ的な態度だといえる
ピンクに囲まれていると私は嬉しかったし、だから積極的に選んでいた
それは、ピンクが私にとって「組み合わせの善い」色だったからだと思う
エイドス的視点、つまり何か一つの枠組みによって人の在りようの善し悪しを判断する態度を「道徳」と呼ぶなら
スピノザ的視点、つまり「本質」は「力」だと考え、1人1人の力の在りようを具体的に見て、組み合わせによって善し悪しを判断する態度はまさに「倫理」と呼べよう
ところで、最近タトゥーで話題になったりゅうちぇるはまさにこうした倫理的な態度を貫いてると思う
彼の態度・行動やそれに対するバッシングを見ていると、「本質は何か」という問いが自然と頭に浮かんでくる
「男なのに女性っぽいファッション」「夫なのにチャラチャラしている」「パパなのにタトゥー入れている」
何から何まで規範からズレている様子に対して、世間からこうした批判がでる
確かに、エイドス的な考えに寄れば彼の言動や態度は「不道徳」だと言えるかもしれない
一方彼ほど、自分の力を最大化できるものは何かという「組み合わせ」を考えて、物事を選択している人はいないのではないか
ある番組でコメンテーターが
「そんな格好をパパがしてたら、絶対子供が可哀想」とコメントした時
りゅうちぇるは「自身のスタイルを曲げない」と返した上で
「もしお父さんがこうやって言われるのが嫌って思うんだったら、もう『お父さんって思わなくていいよ』って言います、僕」
と宣言したのを観たことがあるが
とことん自分の内面に根ざしたスタイルに拘る彼の態度は「倫理的」に見えてならない
(一方、手放しで賛同できない点もある。スピノザは、自分の本質=コナトゥスに即して生きることは決して独りよがりなものではなく、お互いのコナトゥスを尊重しながら生きていくのだと主張しており、國分氏はこれを「反復的社会契約説」だと説明している。しかし、徹底的に・激しくコナトゥスに即した生き方を貫いた場合、それは時として他人を傷つける可能性があるのではないかと思った。)
本質=コナトゥス=変状する力=欲望
「本質とは力」というスピノザの考えを確認したが
彼は以下のワードで「本質」を言い表している
コナトゥス
変状
欲望
これらは全て「本質」を言い換えた言葉である
まず、「コナトゥス」とはつまり
「自己の存在を維持しようとする力」
だと彼は言う
もっというと
何らかの刺激を受けた時、それに対応しようとする力のことを指している
次に、「変状」とは「刺激に対する変化」だと説明する
つまり、「コナトゥス」=「変状する力」であり
こうした力によってもたらされる気持ちを「欲望」と表現した
例えば、仕事でミスをして怒られた時を想像してみる
大体の場合、気持ちが沈むだろう
この「怒られる」という刺激に対してテンションが下がる状態を
スピノザ的には「変状」と呼ぶ
一方、テンション下げたまま仕事するのも嫌だし
段々と、この状況から抜け出したいと思うようになる
こうした働きを「コナトゥス」「変状する力」と呼び
たとえば怒られたことを忘れようとか、他のことを考えようとすることが「欲望」になる
①と②のまとめ
スピノザの「自由論」を理解する上でのベースが出来上がった
まず、「神即自然」という、神はこの世の全てであり、それゆえ万物は完全であるという考えから出発した
したがって、「不完全」なものなど存在せず、そう思うのは「偏見」に基づくのだとスピノザは主張する
そして、「善悪」に対しても彼は独自の判断基準を提案する
そのものの本質=力を最大限発揮させるような「組み合わせ」によって善し悪しを判断するという見方は、ギリシア哲学から続く「形こそ本質だ」というエイドス的なものの見方を退ける
善い組み合わせを選ぶことによって、私達は活動能力を高め「大なる完全性」になることができる
そしてこの「力」とは「自己を維持しようとする力」であり、外部からの刺激に対応しようとする時にこの力は発動される
彼はこうした世界観を提示した上で、どういった「自由」を提示したのか
次のブログで考察を深めていきたい